こんにちは。
健康相談専門くすりの薬師堂です。
5月号の薬師堂ほっと通信より。
「友情」
中日、阪神、楽天で優勝した“闘将”星野仙一氏(享年70)の小学校時代の話です。
岡山県倉敷市で小学校時代を過ごした星野氏の同級生に、筋ジストロフィーという思い病気を持った友達がいました。彼は、時々学校に通ってきていた子でした。
ある日、「病院に行くから学校に来られない」と聞いたものだから、星野氏が「オマエ、学校に来たいんだろう?」と聞くと、彼は、「毎日行きたい」と答えた。だから彼のお母さんに「僕が責任を持って送り迎えします」と約束して、5年生から6年生までの2年間、毎朝、彼の家まで30分くらいかけて行って、そこから学校まで30分かけて彼を背負って一緒に登校しました。
彼は放課後も楽しそうに、星野氏が野球をしている姿を眺めていました。星野氏はどんなに練習が厳しくて疲れていても、野球が終わると、彼を背負って家まで送って行きました。また、学校だけでなくて、遊び場にも彼を連れて行きました。雨の日には濡れないように、リアカーに乗せて連れて行ったそうです。
星野氏は「子ども心に他の友達と同じように付き合いたいという思いがあったんです。経済的な理由ではなく、行きたいものを我慢しなければいけない。医学的なことはわかりませんでしたが、余命が決して長くない病気だったらしいんですよね。だから「何か思い出を作ってもらいたい」と、思ったんでしょうね。彼との思い出で、一番印象に残っているのは修学旅行ですね。隣の席にいた彼に「オマエ、修学旅行行きたいだろ?」と聞くと、「行きたい」と言うんですよ。当然、お母さんは反対した。それでも「お母さん、僕たちが絶対、責任を持って行きますから」と説得しました。その時はお母さんもついていくということで、彼も京都の修学旅行に一緒に行けました。仲間たちと交代で彼を背負って、いろいろなお寺に行ったのを覚えていますね。」と語った。
交流は、小学校を卒業して大人になっても続きましたが、残念ながら彼は41歳で亡くなってしまいます。亡くなる少し前にも、彼は、「頑張ってください。優勝してください。いつも僕は見ています」と星野氏に話していました。
残念ながら、星野氏が中日ドラゴンズの監督として初優勝したのは、彼が亡くなった2週間後でしたが、彼のお母さんは「息子が41歳まで生きて来られたのは、星野さんのおかげです。息子はいつも星野さんの活躍を見て、夢と希望をもらっていたんです。息子にとって星野さんは、同級生で神様だったんです。息子は幸せだったと思います。感謝しています」と話されました。
「燃える男」星野監督と言えば、「怖い」というイメージだったんですが、優しくて情に厚い(熱い)方だったんですね。
息子も今年6年生、小学校最後の年になりました。
小学校で沢山楽しい思い出を作ってもらいたいのと、星野氏のように、友達に楽しい思い出を与えられるような、優しい人間になってもらいたいものです。